アケメネス朝ペルシア帝国キュロス大王の晩年の行動についてはよく分かっていない。
ギリシア語の文献資料であるヘロトドスの『歴史』によれば、マッサゲタイ族との戦闘で亡くなったという。またクテシアス『ペルシア史/インド誌』も同じ北方の部族、デルビケス族との戦いで負った傷が原因で戦死したと記されている。どちらも遊牧民との戦闘が原因で死んだことになっているが、その後の記述に違いが見られる。
まず、クテアシスは
キュロスはデルビケス人たちの攻撃に出征した、彼らを支配していた王はアモライオスである。デルビケス人たちは待ち伏せていて像部隊をたちあがらせ、キュロスの騎馬隊を潰走させた。キュロス当人も落馬し、インドス兵(インドイ人たちもデルビケス人たちと共闘していた。像隊も彼らからもたらされたものであった)このインドス兵が、落馬したキュロスを投げ槍で臀部の下の太股に命中させた。これが原因で命終した。このとき、まだ生きている彼を家族が収容して、軍陣に運んだ。
ペルシア誌・インド誌 クテシアス断片集
キュロスは死が近づいていることを知り、長子のカンビュセスを次の王と宣言した。キュロスは負傷してから3日後に死んだ。30年の治世であった。
一方、ヘロトドスによると
オリエント史上初となる壮図を企てたクールシュ二世(キュロス)は、逆にアラン限りの不幸を招き寄せ、恐ろしい代価を支払わなければならなかった。すなわち、アム・ダリア川下流域のホラズムを進軍中の12月4日、中央アジアのアーリア系遊牧民マッサゲダイの奇襲を受けて、あっけない戦死を遂げたのである。クールシュ二世の遺体は、故郷ペルシア州に運ばれ、パサルガダイに造営された巨大な石棺の中に納められた。
『ペルシア帝国』 青木 健著 講談社現代新書
彼はその後も各地の反ペルシア勢力を叩く戦いにおわれ、最後は北方の遊牧民マッサゲダイと対戦中、罠にかけられて戦死したという。ヘロトドスによれば、それも首を刎ねられて自らの血でみたされた皮袋につめられるといった悲惨な最期だった。しかし遺体は香詰めされて、バビロンの太守として次のエジプト侵略の準備を進めていた長子カンビュセスのもとへ送られたともいうので、ヘロトドス自身はっきりしていなかったようである。
世界の歴史4巻オリエント世界の発展 小川英雄/山本由美子著 中央公論社
カスピ海東部の騎馬民族であるマッサゲタイ族討伐の遠征で亡くなったという。トミュリスの部族だ。
キュロスが北方への遠征で亡くなったという点では両者とも一致しているが、どのように亡くなったかについては両者に食い違いがある。
ヘロトドスによると、戦闘が終わったあとキュロスの遺体が戦場にあるのを発見され、マッサゲタイ族の女王トミュリスにより、首が切り落され、血まみれのまま皮袋に入れられた。トミュリスは自分の息子がペルシア軍の罠にかかり自死しており、その代償はキュロスの命を持ってあがなうしかないと考えてもおかしくない。当然、宿敵キュロスを倒したあと、首を切り落としそれを皮袋に入れるという屈辱的な扱いをしている。
映画でも女王トミュリスが登場する、このヘロトドスの説が採用されている。視覚的にもインパクトがあり、物語性もある。
キュロスは前530年に亡くなったと推定されている。ヘロトドスによると王位にあったのは29年間であった。
キュロスの墓
王宮都市パサルガダイに作られた。この墓についてローマ時代のギリシア人アリアノスが『アレクサンドロス大王東征記』に詳しく記されているという。
キュロスの墓の周囲には庭園が造られており、墓はさまざまな種類の樹木で覆われ、灌漑された水も流れていたという。墓室の入口は人ひとりが通れるぐらいの大きさだが、墓室内には黄金製の棺のなかにキュロスの遺体が納められ、その横には脚に金細工をほどこした長テーブルがしつらえてあった。長テーブルの上には、あでやかな衣装が何着も置かれており、そのほかにも装飾品や剣などが供されていた。そして、墓域内には父子相伝の墓守が常駐し、毎月キュロスに馬を供儀していた。
『アケメネス朝ペルシア』阿部拓児著 中公新書
映画『女王トミュリス』はヘロトドスの主張をもとに作られている。息子の死の復讐のために民の存続のために巨大帝国のペルシア軍と戦う。強烈なインパクトとともに、華やかな民族衣装をまとった女王トリュミスは華やかだ。しかし、事実はどうだったのだろうか。
はたして、どちらの主張が正しいのだろうか
ヘロトドスの、キュロス大王の首を切り落とし、自身の血でみたされた皮袋に入れ、戦勝を宣言したやり方は、勇猛果敢で荒々しい騎馬民族らしい行動だ。キュロス大王が亡くなったことは、またたく間に近隣の部族に知れ渡っただろう。そしてペルシア軍を撃退したのは自分たちと同じ民族だということも知れ渡り、「キュロス大王の首を切り落とし、自身の血でみたされた皮袋に入れ、戦勝を宣言したやり方」は我々の部族にふさわしい行動だと何世代にもわたって語り伝えれれる物語となったのだろう。
首がないことは極秘事項として隠され続けたのか、それとも、世界中に王の首はマッサゲダイとの戦闘で捕られたことが知れ渡っており、それが誰もが知る周知の事実であったため、あえてそのことをアレキサンドロスは指摘しなかったのだろうか。
一方、ペルシアとしては、北方の野蛮な遊牧民風情に破れるどころか、王を打ち取られて首を奪われるなど断じてあってはならない事だろう。このような屈辱、到底受け入れらるものではなかったはずだ。そこで、クテシアスのいう「王は槍で突かれるもまだ生きており、自軍へ連れ戻した。そして遺体は丁重に葬られた。王にふさわしい扱いだった」と主張したのだろう。
それに、首がないままキュロス大王を長きに渡って墓守が守るということがありうるだろうか。
遊牧民の風習を詳しく調査したヘロトドスと、ペルシアの風習を記したクテアシスの双方の主張はどちらが正解なのだろうか。どちらも実際に言い伝えられている伝聞を記録したのだろう。しかし、ヘロトドス自身、キュロス大王について彼の出自と同様、死についても複数の伝承が残っていると記しており、どの伝聞が正しいかは確証が持てないと記されている。